2008/07/18

長い取引

 今日お会いしたエレクトロニクスメーカーの営業の方のお話しです。その方は、電子デバイスを他のセットメーカーに売っている。もう10年以上も同じ会社を担当しているのだそうです。最近の課題はやはり省資源、省電力。価格競争力も高めたいセットメーカーは、色々難しい要求をしてくてきます。しかし、長年同じお客さんを担当しているその方は、お客さんにも強い発言力を持っているようです。「価格を下げるなら、ここをこうすればよい」などとアドバイスして、ついでに他社のデバイスを自社製品に切り替えてしまう。この影響力たるやたいへんなものですね。
 ここに至るまでに、長いカレンシーの交換があったのでしょう。相当の蓄積もある。だから、顧客が営業担当者のアドバイスに聴く耳を持つ、というわけです。これはその場限りの取引とは違う。長い取引には、一見さんには難しい重みがありますよね。こう考えると、一方的に渡すだけでなく、カレンシーの交換を続けること自体に、意味があるような気がします。交換を続けることが、カレンシーになるのかな。
 ひとつ心配なのは、この方以外にこの仕事を担当できる人がいるのかどうか。きっと夏休みもないんだろうな。

2008/07/17

身内の感覚

 お取引先の方との間に「身内」の感覚がつかめたら、仕事はぐっとしやすくなりますよね。先日もあるプロジェクトが一段落し、お客様と顔を見合わせました。この瞬間、相手との壁がまたくずれたな、と実感します。
 売り手側は、顧客に買ってもらおうとしますから、あの手この手でカレンシーを渡そうとします。顧客にとって有益と思われる情報を、売り手は次々と用意します。それに価値を感じると、顧客側は注文すると言っていい。これは売り手と買い手のカレンシーの交換です。面白いのは、顧客側が、注文以上のカレンシーを返そうとすることです。たとえば、食事に誘ったり、とても丁寧に接してくださったりしますね。私は、これは、カレンシーのバランスをとろうとしていると考えます。こちらの方がカレンシーを受け取ったと感じていると、いざというとき売り手の言うことを聞かなければならないような気がするからです。興味深いことに、ここで買い手側の好意を受け取った瞬間に、相手との距離が近くなった、身内になったという気がしますね。カレンシーのバランスがとれて、ここからが人間同士の付き合いだからかな。
 しばしば買い手のご好意に甘えるのもよいのは、こういう背景があるのだと思います。

2008/07/16

誰の役にたちうるか?

 このたびの日経ヒューマンキャピタル2008では、ワークショップのタイトルを「あの上司さえ動かす、リーダーの秘密」というタイトルにしたところ、ほとんど一番最初に満席になってしまいました。(みなさま、ありがとうございます)
 これはとりもなおさず、人材開発関係の方々、あるいは現場のマネジャーの方々のご苦労のもとが、上司であるからに違いありません。「親の心、子不知」といいますが、「上司の心、部下知らず」の反映かななどと思っております。来週に向けて準備しています。みなさんの反応が大いに楽しみです。(ご招待状はまだありますから、お知らせくださいね)

あいさつに反応なし

 朝家の近くを歩いていました。ちょうど小学生が登校する時間。多くの児童が学校に向かいます。その途中で年配の男性が一生懸命「おはようございます」と声をかけている。多分校長先生だと思います。ところが、子供たちの反応が少ないんです。一部の子は先生の顔を見ている。しかしほとんどの子供は、返事をしないばかりか顔すら見ない。少なくとも先生と同じぐらい元気に挨拶をする子は、ひとりもいない!
 これはどういうことでしょう。私は思わずその男性に尋ねました。「子供の反応はどうですか?元気ですか?」すると「声が出ませんね、気持ちはあるんですよ」と子供に代わって、理由を述べてくださいました。うーん。このまま大人になって会社に来るんでしょうか?
 原因として考えられること。1.もともと人間関係を知らない(子供ってそういうものかもしれない) 2.先生のカレンシーが不足している(というより正確にはマイナス、ストレートに言えば嫌われている) 3.朝ご飯を食べないので、朝は元気でない(これもあり得る)これぐらいしか思いつきません。1であれば、カレンシーの交換が社会を作っていることを教える必要があります。2であれば、先生として期待を上まわる対応を考える必要があります。挨拶の仕方はファミレスのウェイトレスみたいだったなあ。これでは子供が教師を下に見るんではないか。それを見直した方がよいかも。3なら食育。いかがでしょう?

2008/07/14

課長には権限がないか?

 今日お客様とお話ししていて、先日の日経ビジネスの記事が話題になりました。「名ばかり管理職」について、課長クラスの7割強が「いる」と回答し、会長・社長になると8割強が「いない」と回答している、という調査結果です(日経ビジネス7月7日号」)。この「名ばかり」について言えば、定義がやや不明確な気もしますが、問題認識としてはようやく話題になったか、という感じです。バブル崩壊以降、というより90年代の後半からリストラを進めて以降、少ない人数で最大の成果をというのが、どちらの組織でも共通のテーマだと思います。ですから、課長といえどもプレーヤーであることから逃れるのは難しくなっているのでしょう。どなたもそのようにおっしゃいますから。
 さて、私は、「名ばかり課長」とは、実は「周りの人が動いてくれない課長」のことだったら面白い、と思いました。「課長になったのに部下が動かない」が問題の本質だったら、これはアラン・コーエンが80年代にInfluence without Authorityを書いたときの状況、そのものです。「私たちは職位があがると、権限も強まり、人を動かせる」と思いこんでいますね。これはわれわれ組織人共通の思いこみです。その結果、「部長になったらもっとみんなが動いてくれるんじゃないか」などと考えるのです。社長になったら、社員を思い通りに動かせる、などと考えますよね。ところが、アランとデビッドが見たところ、少なくともアメリカでは80年代にそのような権限で人は動いていなかった(その理由は「影響力の法則」に書かれており、今日は割愛します)。それから20年近くたって、いよいよその現実が常識になってきたのだそうです。つまり、「名ばかり課長」には権限がない、のかもしれないけれども、権限があっても人を動かせないのかもしれない。「権限」が空洞化(というか意味をなさない)しているような状況。したがって、ひょっとしたら部長になっても、社長になっても部下は動かないのかも知れない。仮に、総理大臣になっても部下は思うように動いてくれない。
 「名ばかり課長」の本質が、ここにあったら面白いでしょう?私はこれはあたっていると思います。組織のトップの方は気づいています。「トップになったのに、誰も思い通りにならない」でも課長は気づいていないから、一層苦しい。「もっと上に行けば動かせるのに」無い物ねだりは、苦しいですよ。

2008/07/13

アンサンブル

 ラテンパーカッションを習っています。このお話、以前もしましたね。今日はいつもの呉成徹先生ではなく、先生の先生石川武先生の指導を受けました。パーカッション教育の第一人者。もちろんプレーヤーとしても第一級。1対2で学べるなんて、贅沢だなあ。
 さて、今日はアンサンブル。まずは、ポンチョ・サンチェスのかっこいいラテン・ジャズを聴いて、マンボのアンサンブルパターンを学び、次いでわれわれもコンガ、ボンゴ、ティンバレスで臨みます。ひとつは先生がプレイするので、全く問題なし。あとのふたつは私たちなので、なかなか大変です。だいたいプレイするのに精一杯で、他のプレーヤーの音を聴いていない。だからあわせられない、ということになります。
 先生によると、これは隣の音を聴いているのが大切なのだと。それであわせていけばよい。隣はどうしているかというと、また隣を聴いている。こうしてあわせていくのだそうです。自分の演奏だけでは不足なのですね。まあ、あたりまえですけど。これは、やはりアンサンブルにはカレンシーの交換がある。ひとつの音楽になるっていいですね。実はここでひとつの世界ができているのです。あわせられると、気持ちいい。これがカレンシーとなる。ここで、互いに影響をおよぼしあっているのは、やはり創造性を発揮するプロセスそのものという気がします。下手な私でも、あわせられると気持ちいいですよ。その理由は、こんなところにあるんじゃないかと思います。
 先生が学校で言っているのは、「プロになるなら仲のいい同志で組め」ということだとか。それが望ましいですよね。今のビジネスの現実は、仲の良い悪いでなく、とにかくあったこともない人と組まされてしまいます。ここにチャレンジがあるし、影響力の法則の出番もあると考えます。やはり、隣の音を互いによく聴くことだな、と思った次第です。